目次
まえおき
要旨
1:絵が上手くなるというのは技法的な問題で、誰でも上手くなる。
2:すごい絵を描くためには発想力などデッサンや模写以外のスキルが必要になる。
3:模写やデッサンで絵は上手くなる。意味はある。
4:絵の上達の全体像はデッサン類、知識類、アイデア類に分割するとができる。
5:並行して作品を創りるづけることが大切。
6:絵を上達させたい動機を明確にさせることが必要である
まえおき
[speech_bubble type=”std” subtype=”L1 icon=”snuf.jpg” name=”suu”] どうもsuuです。大学を卒業して仕事も落ち着いてすこし時間ができました [/speech_bubble]
今日は「絵の描き方」について真剣に考えてみようと思います。絵の描き方を考えるためには「絵が上手くなるとはそもそもどういうことか」を考えなければいけません。
まずは情報収集ということでたくさん本を買ってみました。そのなかで良かったものがベティ・エドワーズの「脳の右側で描け」とシャルル・バルク「ドローイングコース」です。絵の全体像の理解という意味では成富ミヲリの「絵はすぐに上手くならない」がよかったです。
文章全体がなんとなく上からになってしまい申し訳ありません。これから私が絵の描き方を学ぶにあたってのメモ書きのようなものをどうにか文章化して共有したいと思い本記事を作ります。サイトのタイトル通り創造のログ(履歴)です。
デッサンの本はわりと高いです(バルグの本なんて6200円もします;;)。お金がなくて本が買えない人もこの記事で重要な要素だけ共有できればそれだけで幸いです。
好きで描いていればいつかうまくなるという根性論をベースにしつつも、すぐにうまくなる本を何冊も買ってしまうという矛盾。そして『すぐにうまくなる本のはずなのに、やっぱりうまくならない』という挫折感で、同じところをぐるぐる回ってしまう方も多くいるのではないでしょうか(成富ミヲリ「絵はすぐにうまくならない,4P」)
ほんとこれなんですよね。たくさん本を買って学んだ気になっていましたがほとんど絵を描いていないし、練習もしていませんでした。パース系の知識は少しは身につきましたが、その程度でした。
絵の上達には知識が一番で、絵の構造やルールがわかれば簡単に描けると思っていました。そしてとにかく描け的な根性論的な苦手でした。そしてなによりも「どうして自分は絵が上手くなりたいのか」という根本的な動機が曖昧でした。
今回は「絵を描くということの全体像」を探ること、そして自分が「なぜ絵を描きたいのか」を知ることが目的です。全体像と動機がはっきりすれば、後はひたすらステップをこなしていくだけです。
絵が上手くなるとはどういうことか
絵が上手いとすごいは違う
[speech_bubble type=”std” subtype=”L1″ icon=”snuf.jpg” name=”suu”] すごい絵ってなんですかね [/speech_bubble]
絵が上手いとは
思い浮かぶのは写実的な絵です。目の前にリンゴがあるように写実的に絵が描ける人がいたら「上手いな」と思います。アニメや漫画、芸能人等をそっくりそのまま模写できる人も「上手いな」と思います。よくあるアニメや漫画の絵を模写してる人も上手だなと思います</> これらの共通しているのは「答えがある」ということだと思います。リアルに描くための知識は影の陰影や、色の使い方、線の使い方、形のとり方、基本的には正解があるものだと思います。そこに「個性」というものはあまり介入しないと思います。
もちろん模写ひとつとっても「個性」というものは少しは出ます。強弱の付け方や線の付け方、色の付け方、どこを描かないでどこを描くかといったものは人それぞれ違うと思います。ですがそうした個性は比較的小さなものだと思います。
こうした知識によるテクニック、または経験によるテクニックは学べばある程度はついてきますし、上手くなると思います。
岡勇樹の「スーパーデッサン入門」では「上手い絵より『良い絵』を目指そうと(14P)」いっています。
どういう絵が「良い絵」かというと、立体感、空間感、材質感のどれかがずば抜けて良いものなら、見る人の印象に残る良い絵になるそうです。さらに光の効果も必要になってくるそうです。
「ずば抜けて良い」というのがポイントだと思います。デッサンは立体感、空間感、材質感、光の効果を表現するための技法だといえます。それがバランス良く表現できれば写実的な絵となり、上手い絵になります。そこからさらにどれかの要素がずば抜けて良ければ「良い絵」になるということです。
たしかにそうかもしれません。まるで本物のように、すごい写実的な絵は「上手い」を超えて「良い」、そして「すごい」と思います。
絵がすごいとは
すごい絵というのは「こんな組み合わせで描いてしまうのか」、「こんなに神々しく表現できるのか」、「難しい概念を絵でこんなにも表現できるのか」とか、そういったものはアイデアや感性に近いものがあると思います。知識が殆ど無い幼稚園児でも「すごい絵」を描ける人はいると思います。
「個性」や「感性」がものすごい出る領域が「絵のすごさ」だと思います。答えというものが基本的にない領域です。高校の勉強ではひたすら暗記で答えのあるものが中心ですが、大学で勉強から学問へと変わり、何が問題かを「自分で問う」ことが中心へと変わるのに似ています。
すごい絵で画像検索してみました。
https://japan-dog-academy.seesaa.net/article/299144417.html
https://www.google.com/url?sa=i&source=images&cd=&cad=rja&uact=8&ved=&url=https%3A%2F%2Fimgur.com%2Fgallery%2FQO8aT&psig=AOvVaw04jpFtsHnKWILvuXQ2NoPt&ust=1526896873017722
https://www.google.com/url?sa=i&source=images&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjhib3chZTbAhVHU7wKHQ1PDkwQjRx6BAgBEAU&url=http%3A%2F%2Fiitokoronet.com%2F2015%2F12%2F24%2Fpost-5885%2F&psig=AOvVaw3qEbiJ0UiMvLxaqclYHw49&ust=1526897179526291
https://www.google.com/url?sa=i&source=images&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwje_eHxhZTbAhUIfLwKHdyMArQQjRx6BAgBEAU&url=http%3A%2F%2Fpixiv.navirank.com%2Ftag%2F%25E9%25A2%25A8%25E6%2599%25AF%250A%25E3%2581%25AA%25E3%2581%25AB%25E3%2581%2593%25E3%2582%258C%25E3%2581%2599%25E3%2581%2594%25E3%2581%2584%2F&psig=AOvVaw3qEbiJ0UiMvLxaqclYHw49&ust=1526897179526291
写実的な絵、発想がすごい絵、空想の絵等が出てきます。
こうした絵がデッサンや模写だけでできるかと言われたら難しいです。写実的な絵ならなんとなりそうですが、飛び抜けてうまりリアルな絵はデッサンや模写で得られる基本技能を超えた経験や発想力が必要になってくると重い思います。
下の2枚はピクシブでも人気が出ていそうな絵です。いかにも高評価されそうな絵で、すごいと思います。これらの絵がデッサンや模写だけで描けるかと言われたら難しいです。ですがデッサンや模写を全くしないで描くのも難しいと思います。
デッサンや模写は家を建てる際の土台、骨組みみたいなものです。そこからかわいいキャラはどう描くか、厚塗りはどうするか、髪はどう塗るのか、幻想的な世界はどうやって描いたら良いかなどの木材やペンキ、釘等々が積み重なって家ができるのだと思います。
デッサンや模写で基本的なドローイングができれば、次はレンダリング、その次はカラーリングが待っています。イラストに使えそうな建築物を探したり、かわいさとは何かを研究したり、その先も終わりがありません。終わりがないからこそすごい絵は面白そうですね。
絵の描き方と創造について
たしかに「陰影の出し方」や「遠近法」や「図学」といった技術・知識は重要です。そうしたテクニックはデッサンや模写、クロッキー等でだいたいは取得できると思います。
ですが私は絵の描き方を「テクニック」だけに絞りたくありません。絵の描き方というよりは、もっと大きく「創造」について考えたいです。つまりは個性の出し方、感性の出し方、アイデアの出し方、考え方、そういったものを含めて絵の描き方のサイトにしていきたいと思います。
個人的には「絵がうまい人」よりも「絵がすごい人」のほうが好きです。絵がうまい人は基本的に代わりがきく存在です。カメラで良いんじゃないかなんて言われることもあります。ショパンをうまく弾ける人よりも、拙くても作曲してる人のほうが胸に来るものがあります。
絵が上手いということは創造の前提であり、手段にすぎないと考えたほうが前に進みやすそうです。「絵のうまさに関する知識」はあったほうがいいですが、それにこだわりすぎると創造ができなくなり、前に進めなくなってしまいます。絵がうまくなくても、自分の表現したいことを表現できていればすごい絵だと思う人は出てくるはずです。
「作品制作はすぐに始めてください。勉強が終わってから作品を作ろうと思うと、一生作品制作には入れません。うまくなってから作ろうと思っても、自分でうまくなったと思う日などきません。ですから、とにかく下手でもいいので、作品制作はすぐ始めましょう。構想を練るだけでも、自分に足りないもの、勉強しなくてはならないものが見つかりますので、作品に必要な要素を重点的に学ぶと、より効率よくトレーニングを積むことができます(「絵はすぐに上手くならない」,36P)。」
これはとても重要ですよね。頭ではわかってますが、まだ足りない、もっといい本はないのかと探してるだけで人生終わってしまいそうで怖いです。とにかく作ってみないとだめですね。絵のうまさにこだわりすぎず、創造してみることが大事ですね。
模写やデッサンで絵がうまくあるのか、意味はあるのか
上手くなるし意味はある
模写やデッサンで絵は上手くなると思います。「絵のうまさ」の定義を写実的に描ける技術だとすれば、確実に上手くなると思います。意味があると思います。
問題は模写やデッサンで「絵はすごくなるのか」ということです。難しいですよね。「絵が上手い漫画」が売れるとは限らないのと同じです。
小畑健は絵が上手い人で有名ですが、絵がすごいかと言われたらどうでしょうか。確かにすごいですがどちらかといえばデスノートのアイデアを考えた原作者の大場つぐみや、ヒカルの碁の原作者のほったゆみがすごいというイメージがあります。
もちろんそういった良いアイデアを、どうやって絵に表現するかという過程で小畑健さんの個性や感性が詰め込まれているのは確かですが、上手い絵と良いアイデアが両方合わさって「すごい絵」になるのだと思います。どちらも必要な要素です。
もちろんアイデアだけで、絵が下手でもだめだと思います。しかしキャラクターの設定や、作品の背景の設定が面白ければ絵が下手でもすごい作品だと思われることがあります。「進撃の巨人」は絵が上手とはいえませんが、売れていますしすごいと思います。
どの分野においてもデッサンや模写で得られる「絵のうまさ」が邪魔になることは少ないと思います。絶対に絵のうまさは必要だ!とは言い切れませんが、あって困ることはないですし、むしろ必要な土台、前提の場合が多いです。自分の表現したいことの力になる場合が多いです。
デッサンは絵のうまさのために絶対にしなくてはならないか
成富ミヲリさんによればデッサンはやらなくても絵は上手になるそうです。これは難しい問題ですよね。デッサンとはそもそもなんだという話になります。
デッサンは広く定義すれば「絵を描く」ということですが、狭く定義すれば「見て描く」ということになります。
こういった意見は模写やクロッキー等で代わりがきくという話に過ぎません。そして模写やクロッキーにもデッサンと同じような要素がたくさんあります。
次の項でそもそもデッサンとはそもそもなんだ、模写とはそもそもなんだ、両者に共通しているものはなんだ、絵の描き方の全体像のとはなんだということに迫っていきたいと思います。
「答えは『デッサンをやった人はうまくなる』『デッサンをやらなくても絵は上手になる』です。デッサンは必須ではありませんし、私も必ずやらなくてはならないとは考えていません。どんな方法でも良いので、トレーニングを積めば上手くなります。デッサンはその中でもかなり強制力の強いトレーニングと言えます。しかしアプローチとしてデッサンを選んでも良いのです(「絵はすぐに上手くならない」30P)。」
絵の描き方、絵の上達の全体像について
まずは絵がうまくなりたい理由を考える
1 「絵が上手くなりたい理由」をよく考える
2 どうやったら絵が上手くなるかを考える
1がしっかりしていないとなかなか2を明確に考えられません。プロ漫画家になりたいか人と、建築家になりたい人では「どうやったら絵が上手くなるか」、「どこまで絵を上達させればいいのか」、「どの分野の絵を上達させればいいのか」についての内容が違ってくると思います。
ドラクエで勇者が魔王を倒すストーリーなら、とりあえずレベルを上げて、武器や仲間を強化して、といったように同じようなプロセスをステップアップしてクリアすればいつか魔王は倒せます。しかし絵の上達に限って言えばみなさんが同じ目的ではありません。
漫画家になりたい、映画で3DCGを扱いたい、デザイナーになりたい、会社でちょっとしたスケッチで説明をするだけでいい、落書きが楽しければいい、アニメーターになりたい、さまざまな理由、目的があります。
こういった区別は主に仕事を念頭に置いた区別だと思います。もっと単純にTwitterで絵を共有したいとか、友だちに見せたいとか、そういった動機で絵を描きたいと思う人のほうが多いのかもしれません。
デザイナーは絵の正確さよりもアイデアが重視されますし、建築家や3DCG関係はパースの知識等正確さが重要視されます。漫画家はキャラクターをどうやって動かすか、魅せるか等のテクニックが重視されると思います。このように少し考えただけでも千差万別であることがわかります。
なぜか文系だから数学やる必要はない、といった意見を思い出しました。大学の学問はどちらかといえば分野横断的な、総合的な発想のほうが重要とされています。経済学に生物学の発想をとりいれたらうまくいった、といったことがよくあります。それと同じように建築家だからデッサンがいらない取ったこともないと思います。
みなさんがどういった分野で絵を描きたいのか、またはどういう絵が描きたいのかという理由次第で、どういった絵の描き方を学ぶべきかというのは確かに違ってきます。ですから多くの絵の描き方の選択肢を提示して、私は建築家志望だからこれとこれを学ぶべきだ、と自分で選択できるのが一番だと思います。
そもそも絵が下手であるとはどういうことか
自分の絵を冷静に分析できる能力があれば、たとえば「立体感がない」と自分の絵に対して判断することができます。そうした判断ができれば、立体感をつけるような絵の描き方を学べばいいという話になります。
立体感はデッサンや彫塑(ちょうそ,彫刻と塑像)、またはパース等の知識等で身につけることができるのではないか、という発想へ至ることができます。さらには他者の作品の立会感の表現方法を模写で学んだり、色彩学を通して立体感を表現しようといった個性的な表現へといたることもあるかもしれません。
何が下手なのかわからない、というくらいのレベルであればまずは「基礎能力」を上げるべきという話になってきます。「絵はすぐに上手くならない,79p」では以下のような自己評価の具体例を挙げています。あまり多く引用するとアレになってしまうので各評価に対するトレーニング例は本を買うか借りるかしてください。
・ペン先だけで見ている
・図りすぎ・直しすぎ
・計測の仕方を知らない
・輪郭だけ追っている
・形を覚えていない
・描画の経験が少なすぎる
・測り方が分からない
・自分の絵を冷静に見れない
・経験不足
・視野が狭い
・細かい作業ばかりしている
・筆圧コントロールができない
・経験不足
・作品鑑賞の能力が低い
・構図が弱い、構図が分からない
・画面に目が近すぎる
・トリミングの経験が少ない
・想像力の欠如
・自分の能力がわかっていない
・感性の経験が少ない
・観察力不足
・陰影・立体の理解が足りない
・自分の個性がわかっていない
・着手するきっかけがわからない
王道の絵の学び方
「絵はすぐに上手くならない」では王道の学び方があるといいます。紹介してみたいと思います。
そう言われれば、そうだな、といったような感じです。大体の人がデッサン、アイデア、知識等が重要だということはわかっていると思います。
特に「順番にやるというものではなく、平行してやるもの」は特に大事だなと思いました。これはおそらくどの分野でも言われていることだと思います。
小説家や音楽家でもそうだと思います。アイデアをストックして、知識を溜め込み、小説の書き方について学んでいる人でもなかんか作品をズルズル後回しにしてしまうことはよくあると思います。自分はまだ未熟だから作品は作れない、と思ってしまいます。
「さて、学び方は千差万別と書きましたが、それでも『王道』はあります。大
まかに分けて『手慣らし』『見て描く』『形状を覚える』『アイデアをストックする』『技術の向上』『作品制作』これに少しだけ『知識』が必要となります(「絵はすぐに上手くならない,36P」)。」
線の練習や落書き等
2 見て描く 形状を覚える
スケッチ、写生、クロッキー、デッサン等で実物を見て描く。様々な形状を覚える。
3 アイデアをストックする
4 技術の向上
5 知識
パースや図学等
そして重要なのはこれらは順番にやるというものではなく、平行してやるものだそうです。
「作品制作はすぐに始めてください。勉強が終わってから作品を作ろうと思うと、一生作品制作には入れません。うまくなってから作ろうと思っても、自分でうまくなったと思う日などきません。ですから、とにかく下手でもいいので、作品制作はすぐ始めましょう。構想を練るだけでも、自分に足りないもの、勉強しなくてはならないものが見つかりますので、作品に必要な要素を重点的に学ぶと、より効率よくトレーニングを積むことができます(「絵はすぐに上手くならない」,36P)。」
これはとても重要ですよね。頭ではわかってますが、まだ足りない、もっといい本はないのかと探してるだけで人生終わってしまいそうで怖いです。とにかく作ってみないとだめですね。
そもそもアナログで描きたいか、デジタルで描きたいかによっても大きく違うと思います。アナログで必死に練習して手に入れる技術がデジタルでは一瞬で表現できてしまうもあります。
ライターで火をつけるか、石で火をつけるかに似ています。石で火をつける過程で色々なものが手に入ると言われても、ライターで火をつける方でいいやと思う人もいます。ここらへんは難しいですよね。アナログの中でも定規を使って測れば鉛筆で図る必要はないじゃないか、ということも考えられます。
デジタルではちょっと線が曲がったり歪んだりしても、すぐに修正できます。そういう意味ではアナログよりも簡単です。線をまっすぐ描く方法や、円をきれいに書く方法は役に立たないかもしれません。ですが曲がっているか歪んでいるか、自然かどうかについての判断をデッサンの技法を一切学んでいない人が判断できるかどうかというのは微妙なところです。
その意味でデッサンで得られる「観察眼」はデジタルにおいても役立つといえます。デジタルで適当に影をつけてみたけど、これが合っているかどうかデッサンをしていない人はわからないのではないでしょうか。遠近法や線の太さの工夫なども同じだと思います。
したがって、デジタルでしか絵を描く予定がない人もデッサンは意味があると思います。
デッサンの全体像について
デッサンとはそもそもなにか
デッサンとは:対象物をよく観察し、平面の上に描き起こす行為(「基礎から身につくはじめてのデッサン,6P(西東社)」)
物体の球体、明暗などを平面に描画する美術の制作技法(wiki)
デッサンはもともとフランス語でdessinといいます。英語ではドローイング(drawing)、日本語では素描(すびょう)というそうです。
元々デッサンとは絵を描くこと、あるいは線を引くといった広い意味で、「見て描く」という意味は日本独自の意味らしいです。「線を引く」から「実物を見て描く」、「形をとる訓練」等の意味に変わり、「デッサンが狂っている」等の表現で用いられるようになりました。
デッサンの技法を学ぶ意味はあるのか
意味はあると思います。デッサンをすることで確実に絵は上達するからです。
「絵はすぐに上手くならない」ではデッサンをしなくても絵はうまくなると主張しています。そして同時にデッサンをしても絵は上手くなると言っています。その理由として、デッサンではなくても模写やクロッキー等で学習して同じような知識を得られる場合もあるからだといいます。
またどういった分野で活動したいのか、どういった絵を描きたいかによっても違うそうです。リアルな絵を描くためにはデッサンは必須だそうです。可愛い女の子が描ければいいという程度の人には必ずしもデッサンでは必要ないそうです。
一般的なデッサンの技能
2 質感の出し方
3 遠近法のとり方
4 光と影
5 構図
6 プロポーション
7 解剖学
8 道具の使い方
A 構造
B ジェスチャー
C ドローイング
D レンダリング
アタリについて
アタリとは目安の下書きみたいなものです。リンゴをデッサンするのに球体や立方体であたりをとる方法等が基本技能となります。
こうした幾何学的な技能、形態学的(モルフォロジー)な技能はデッサンでも重要な部分だと思います。
有名なA・ルーミスの本の「やさしい顔と手の描き方」では人間の顔を球体として捉えたりしています。ミシェル・ローリセラの「モルフォ人体デッサン 箱と円筒で描く」は形態学的な技能が中心です。要するに箱と円筒を使ってアタリを正確にとろうということです。
アタリについて考えていくと、幾何学にたどり着きます。そして幾何学について考えていくと、遠近法にたどり着きます。
球体で顔を捉えられたとしても、すこし横を向かせようと思っただけでとたんにどう形をとっていいのかわからなくなります。そこでは遠近法の知識が必要になってくるからです。またあたりを考えるにあたって解剖学等の知識も必要になります。
そしてアタリが取れてもどうやって質感を出すのか、陰影をつけるのか、構図を取るのか、プロポーションはどうなっているのか、道具はどう使えばいいのかなどすべての項目が関連しあってきます。
そうしたものが終わっても、色はどうつけたらいいのか、デジタルソフトはどう使えばいいのか等さらなる知識が必要となってきます。
A 構造
アタリを正確にとれるということは、描きたい対象の「構造」を理解しているということでもあります。つまりアタリをとるためには、構造を理解している必要があります。
「ラインを極める人体ドローイングマスターコース」のスティーヴ・ヒューストンいわく構造とは以下のことを指します。
「構造はパーツの組み合わせで構成される。三次元のフォームだ。単純化を突き詰めると、構造は球、ボックスr,チューブの三種類に行きつく。構造とはすなわち、すべての対象を扱いやすい単位あるいは球状に変換することだ。この観点で変換していくうちに、何を意図しているかがわかる。これが構造で、2つの必須アイデアのうちの一つ目だ…..『構造』はボリューム、マッス、三次元構造、フォームなどさまざまな名前で呼ばれる….構造とはつまり、デザイン及び描画のテクニックを支える、足場のようなものだ(26P)。」
「『構造』というアイデアを理解して活用するには、彫刻家と同じように考えるのがよい。つまり、ドローイングやペインティングはフォームを組み立てて構築する行為だといえるのだ。オブジェクトは、それを構成する三次元のパーツの集合体だと考えることができる。たとえば木を考えてみよう。根、幹、枝、葉、場合によっては果実などのパーツに酔って全体が構成されている。本書のテーマは人体だから、人体を構成するすべてのパーツ(部位)を構造と呼んでいる(23P)。」
幾何学や形態学について学ぶことは、構造について学ぶことでもあります。また解剖学について学んで構造を知
り、アタリをとるといったように相互に関連しあっています。
B ジェスチャー
構造を理解した後は、それを組み合わせる必要があります。「部位と部位のつながり」をジェスチャーといいます(スティーヴ・ヒューストンの定義)。
「最初に、人体の描画における『ジェスチャー』が何を意味するかを述べておこう。まず、ここで言うジェスチャーは、皆さんの内なる感情の表れではない。大げさな身振りで紙に向かって画材を振り回すこととも関係がない。本書の冒頭で説明するジェスチャードローイングとは、直感的に描くことを指しており、こうすることでアイデアを誇張できる。後ほど、脊椎の描写でもジェスチャーについて触れている。どちらの場合も、本書では一貫してすべての目的の出発点となるフレームワークとして、『ジェスチャードローイング』を位置づけている。また、『ジェスチャー』を広義にとらえる。『ジェスチャー』は、彫刻の骨組み、または3Dモデルのリグと同じものとも言える。」
質感について
よく載せてあるのが「ハッチング」です。球体では曲線を使って奥行きを表現したり、立方体では縦の線と横の線を使って質感を表現したり(クロスハッチング)と、そういったものです。
海は鉛筆でどう表現したら良いか、雲はどう表現したら良いかなど各論的なものが多いです。鉛筆の使い方や選び方、練り消しの使い方等も学ぶ必要があります。
若い世代のデジタル派の人はそもそもこのような古臭い表現は必要としていないのかもしれません。
雲専用のブラシとか、クリップスタジオのでは素材ありますよね。そういう使い方のほうが求められていることなのかもしれません。しかし質感についての知識はあって困るものではないと思います。そういう知識があれば自分でブラシツールを作るといったこともできると思います。
遠近法について
遠近法(パース)はデッサン本で必ずと行っていいほど触れられています。簡単なものから専門的なものまであります。
大抵の本では遠近法の理解は絵の上達には必要であるといっています。面白いのは遠近法の知識を詰め込む必要もあるが、遠近法にこだわりすぎない必要もあるということです。目安程度に考えたほうが良いのかもしれません。
「パースという言葉は、『ポジション』(他との相対的な関係での位置、向き)を小難しく表現したものだ。3次元の世界では、空間内に左右の傾き、前後の傾き、面の向きの3つの『ポジション』が存在する(ステヴィーヴ・ヒューストン,「ラインを極める人体ドローイングマスターコース」59P)。」
「遠近法は学ぶべきものであり、そしてその後、忘れるべきものである。結果として残る遠近法への感受性は近くの手助けとなるが、その地殻は人によって異なり、その人がものごとに反応する必要をどれだけ感じているかによって決まる(ネーサン・ゴールドステイン)。」
「遠近法についてよくわからなければ遠近法についてよい本を読むことをおすすめする。成功するためには、いつかは学ばなければならないものであり、遠近法なくしてよい絵は描けないのである(A・ルーミス「やさしい人物画」39P)。」
「パースがわからないまま絵を描いていると、何か一つ描こうとするたびにいちいち悩むはずだ。そして描きたいものが書きたいアングルで撮影された参考写真を探してみたりするんだよね。こんなめんどくさいことはもうやめようよ。パースがちゃんとわかっていれば、たいていのものを箱型の立体をみなすことができる。一度パースをきっちりマスターしてしまえば、どんなものも恐くない。なんでも描けるようになるんだ。…..上達の道は、よく観察し、直感を磨いて、練習を繰り返すしかない(デヴィッド・チェルシー「パース!漫画でわかる遠近法」1-17P)。」
「人間の視覚をそっくりそのまま紙の上に創り出すことはできません。目に映る像を立体として見せかけるわけです。人間には2つの目があり、それによって立体としてものを見ることができます。遠近法はごまかしです。人間の見える世界を模倣しているだけです。本書では、最高の幻想を紙の上に作り出すために存在している原則を説明します。原則をわかった上であれば、意図的に破ることができます。しかし、意図せずに守られていないと、それが原因で伝えようとしていることが伝わらないことがあります(スコット・ロバートソン「HOW TO DRAW」21P)。」
光と影とは
光と影といえばジェームズ・ガーニーの「カラー&ライト」が有名です。
ざっとみてなんか難しそうだったので本棚に眠っています。これから読み返してみる予定です。デッサンはモノクロが中心ですが、いずれは読まなければいけない本だと思います。
どのデッサン本でも紹介されているのが「フォームの原理」だと思います。
例えば球体に光が当たると、どう陰影がつくかというやつです。この記事では描き方の詳細を説明するのではなく、デッサンはどんなことを学ぶのかという説明なのでざっと説明するだけにします。今後記事を作るにあたってそれぞれ個別に勉強し、紹介していこうと思います。
フォームの原理:立体幾何学形状の成り立ちについての分析。これに基づき、立体を明暗のコントラストの法則によって描くことができる(「カラー&ライト」,46P)。
光と影を言い換える言葉がなにかあるとすれば、「レンダリング」だと思います。
スコット・ロバートソンの「HOW TO RENDER」ではレンダリングを以下のように定義しています。
「レンダリングとは、線画(ドローイング)の次のステップで、アイデアをより明確に伝えるための作業です。本書は、前著『スコット・ロバートソンのHWO TO DRAW -オブジェクトに構造を与え、実現可能なモデルとして描く方法』の知識を基本に、トマス・バートリングと私がモテる限りの知識で、光、影、反射を描画する方法を解説します(10P)。」
構図とは
構図(composition)とは:画面に対するモチーフの入れ方、背景とモチーフのバランス「基礎から身につくはじめてのデッサン。

(「基礎から身につくはじめてのデッサン」,95P)
構図とは上の画像のように、モチーフ(またはオブジェクト)を画面内にどのように入れたらいいかといったようなものです。自分が見えている範囲のどこを切り出すか、トリミングするかといったことと関連していると思います。
きれいに描けても構図が下手な場合は、うまく見えません。初心者は構図でかなり悩むことになると思います。とりあえず真ん中においておこうとか、真ん中近くにおいておこうとかといったことになると思います。
そもそも構図とはどのようなものがベストなのか、正解はあるのかと悩みます。センスの問題の場合もあると思います。
「構図を教えるには、自然界の構図の背後にある科学的・数学的理論を理解している必要があります。アートでリアルな描写を行う上で重要なこと、それは、私達の標準的な認識が、比率の法則、シンメトリ(左右対称性)とリズム、形と物質の調和などに与える影響を理解することです(「デジタルアーティストが知っておくべきアートの原則」,34P)。」
難しそうですね。構図を決めるためには科学的・数学的理論の理解が必要だと。
構図には黄金比というものがあるらしいです。そして黄金比を作成する数式や方法があるらしいです。黄金比とは「自然界の美学や美しさを再現できる方法」に関係してるそうです。
「素晴らしい構図を作るには、自然界で見られる自然の構造体やパターンに従います自然はランダムなフォームを創造しません。すべての構造体の成長パターンには、ある程度の規則性、割合、シンメトリが存在します。生物の自然な成長には5つの原則が見られ、これらの要素が構造のルールを構成しています(50P)。」
以下は「デジタルアーティストが知っておくべきアートの原則」50Pの引用です。
1 全体:自然界の個々の構造はすべて、その全体の形によって不可欠なものです(たとえば、葉のかたちを考えずに、木のかたちを考えるのはとても困難です)。
2 割合(プロポーション):個々の部分が全体を構成するという1つめのルールに対応するのが、この2つめのルールです。すなわち、すなわち、部分同士は互いに関連/比例して配置されており、主要な骨格(背骨または茎)を中心としてまとめられています。
3 左右対称性:割合は、周囲の世界のシンメトリ、リズム、秩序などに繋がります。不均衡な関係性は、秩序の乱れ、非対称性、ずれたビートのリズムになります。人間はこれを、退屈な、あるいは歪んだものとして受けとめます。
4 リズム:リズムの法則は、全体の部分の反復/交代という性質を表します。リズムは比例要素、感覚要素(音響、ボーカル、描写、遷移図)の規則的な変化です。シンメトリは、リズムの特殊な小区分に当たります。リズムはあらゆる所に存在し、自然界のパターンそのものにも見られます。黄金比を用いた絵にリズムが適用されると、一定の動きや生き生きとした性質を生み出します。
5 興味のポイント:全体の要素の中で小さなオブジェクトが集まっている部分です。絵の中に注目の的となる場所が2~3つ存在することもあります。しかし、構図の法則に従えば、これは起こり得ません。なぜなら、私たちは同時に2〜3か所を見ることができないからです。
プロポーションとは
プロポーション(proportion)は日本語で一般的には「割合」を指します。または比率(ratio,percentage)を指す場合もあります
たとえば眉から鼻にかけての長さが、鼻から顎にかけての長さが等しいといったものがプロポーションになります。こうしたプロポーションは知識として役に立ちます。
他にも目の前のリンゴを模写するときに、リンゴの短い枝の部分と、本体の部分の割合は何対何かな、と目測するときもプロポーションが役に立ちます。こうしたプロポーションは知識というよりも、目の前のものを描きたいときに役立つものです。
「どんなポーズでも、人体を正確に描くには基本的なプロポーションを理解しなければならない。この知識が、観察と想像力によって描かれるデッサンに説得力を与える。プロポーションを理解すれば、作品を判断する基準ができる。隠れているパーツがどうなっているのかをイメージすることが出きるので、『おおよその見当』もつけられるようになるのだ。また、デッサンが狂っていないか、体の各部分をチェックして判断することもできる。プロポーションの比率は覚えやすいので、進んで努力すれば、自分のものとして利用することは難しくない。デッサンに説得力が生まれ、正しいプロポーションに見えるようになる(ロバート・バレット「人物デッサンのすべて」37P)。」
解剖学とは
解剖学とは:広い意味で生物体の正常な形態と構造とを研究する分野である。形態学の一つ(wiki)
美術における解剖学と、医学における解剖学は違います。ある部分にどうして影ができるのか、どうしてしわができるのか、どこまで曲がるのかといった知識を美術における解剖学は与えてくれます。
解剖学を学んで人体の用語を知ることで、意識してドローイングに活かすことができます。解剖学の本は「スカルプターのための美術解剖学」のように、どのように人体を単純化、幾何学化して理解するべきか等を理解するためのヒントになります。また男と女では骨格が違うといったような知識も得られます。
「私は時として、解剖学の学習が創造性を妨げるのではないかと考える学生に遭遇することがあります。しかし、ひとたび基本的な解剖学的形態を理解すれば、彼らはすぐ解剖学の学習が推測を排除するのに役立ち、それによりさらなる自信と技術をもってドローイングができることを悟ります。こうして新しく解剖学を自覚すると、実物を手本にして人のかたちをドローイングしたり描画したり彫刻したりするのに必要な技術が高まるだけではなく、モデルが手近にいない時にも、記憶によりイメージを表現する能力が劇的に向上します。そして解剖学を学習することにより、人のかたちについて、さらに伝統的な手法をたどったり、択一的な解釈を取り除き探求するような芸術的自由が得られるのです(ヴァレリー・L・ウィンスロゥー「アーティストのための美術解剖学」,11P)。」
道具の使い方
すごい広義ですよね。道具。
デッサンにおいては鉛筆の使い方とか、デスケールの使い方とか、筆の使い方とか、そういったものだと思います。
脳の右側で描けの場合
ベティ・エドワーズの「脳の右側で描け」を紹介します。
1 エッジについて認識する
2 フォルムについて理解する
3 正しいプロポーションと遠近法を理解する
4 光と影について理解する
5 パルール(色価)としての色彩を理解する
この5つは絵の描き方の基本技能(210P)であり、その手順です。
デッサンの基本技能については以下の5つが挙げられています。
・デッサンという包括的機能を構成する基本技能(10-11P)
1:エッジを知覚する(1つのものが終わって別のものが始まるところを見る)
2:スペースを知覚する(周囲や奥に広がっているものを見る)
3:相互関係を知覚する(対象を遠近法によってただしくプロポーションで見る)
4:光と影(明部と暗部)を知覚する(対象を明暗の度合いによって見る)
5:ゲシュタルトを知覚する(全体像とその各部分を見る)
「脳の右側で描け」というのは、画家の目で見ることと等しいです。画家の目で見るということは先程のバルグとおなじように観察眼を鍛えることになります。
バルグの本よりもそういう意味では観察眼の付け方が具体的、科学的に説明されているのでとっつきやすいと思います。繰り返しになりますが模写とデッサンの違いはあまりありません。
どちらも観察眼を鍛えることが中心になります。
ベティ・エドワーズによればRモード(右脳モード)は「空間と関連性とプロポーションにまつわる問題(P50) だといいます。
・左脳がいないときの右脳は、非常に前向きで望ましい精神状態にあります、スポーツの世界でいう「ゾーンに入った」状態です(16P)。
・画家の見方はとてもユニークで、日常生活を送るときの視力の使い方とはまったくちがうからです(4P)。
・描くときの状態とは、完全に覚醒し、没頭し、意識がぎすまされ、集中している状態です。時間の感覚がなくなり、周囲が気にならない状態でもあります。
・写実主義:外界に実際に見えている対象をありのままに描く技術(5P)
・創造と直感力に意識レベルでアクセス(7P)
・右脳のモードを「Rモード」、左脳のモードを「Lモード」(31P)
・いかにしてLモードをはねのけ、意識のレベルでRモードにアクセスできるか(31P)
・創造的なモードに入っているとき、人は直感に頼って、一足とびにものごとの本質を見抜きます。それは、ものごとを論理だてて理解しなくても「すべてが正しい場所におさまる感じがする」瞬間です(37P)。
・「まったくなにも考えないで描くのがいちばんです。ーつまり画家モードで絵を描くとき、言葉を使って考えようとしても脳の中ではこんなやりとりしかありません」
・「この曲線はどこから始まっているんだろう」
・「線の曲がり具合はどれくらいか」
・「この角度は、線の端の垂直線にくらべて何度傾いている?」
・「反対の方向から見たとき、この点は紙の一番上の端(または底辺)からどれくらい離れているのだろうか?」
・「頭のなかで自分に話しかけるとしたら、視覚言語だけを用いること。たとえば「この線はこっちに曲がっている」とか、「この形はここが曲がっている」あるいは「紙の端(垂直線または水平線)に比べると、この線の角度はこうなってる」というようにして部分に名前をつけないことです。名前を呼びたくなる部分に来たら、その部分をなるべく携帯として見るようにします(56P)。」
これらの説明はバルグの説明と近いです。「視覚言語」というのがポイントだと思います。英語を話せないとアメリカ人とうまく会話ができないように、視覚言語を使わないと模写やデッサンはうまくいかないということです。
この視覚言語の鍛え方、つまり観察眼の鍛え方はいろいろなアプローチがあります。バルグは「相互関係」を重視するタイプなようです。相互関係とは「角度と比例」が中心となります。バルグの模写では遠近法の具体的な説明はありません。どちらかというとプロポーション(比例)が中心です。比率でも良いと思います。
眉から鼻先の距離が、鼻先から顎先の距離に等しいという知識が観察によって得られたとき、それはプロポーションのひとつが身についたと言ってもいいと思います。模写をするときも自分である線を基準にして、この線の1/2くらいが30°の方向に伸びているな、というのも相互関係です。
「脳の右側で描け」では相互関係の他にもエッジやスペースという重要な基本技能が提示されています。エッジとは「絵画上で2つのものが接するところ(スペースとフォルムを隔てる線)」であり、(ネガ)スペースとは「ポジのフォルム(球体)」をとりまく周囲の部分です。
模写とは何か
模写の定義
模写とは:美術において、他者の作品を忠実に再現し、あるいはその作風を写し取ることでその作者の意図を体感・理解する為の手段、方法。またその行為によって生み出されたもの。 なお、ただ単にその作品をそっくりに複製する手法は「転写」であり、「模写」ではないとされる(wiki)。
模写と転写が異なるというのはポイントだと思います。基本的に平面から平面へと書き写すことが模写となります。写真を見ながら絵を描いたりするのも模写です。
模写の種類
1 写真模写
2 クロッキー類の模写
3 他者の作品の模写
「絵はすぐに上手くならない」によれば模写にはこのように三種類の模写があるそうです。写真の模写では「平面においてのリアルな絵の手法を開発すること」が目的、クロッキー類の模写では「他者の描き手順を学ぶこと」が目的、作品の模写では「テクニックの会得、自分の癖や個性の確認」が目的だそうです。
たとえばよくあるデッサン本に乗せてあるリンゴの絵を書こうとする場合は模写にアタリ、かつ「クロッキー類の模写」に当たると思います。他者がどうやって三次元のものを二次元のもので表現するのか、その表現方法を学ぶということです。
また目の前の三次元のリンゴを紙に写すときに、デッサン本の影の捉え方を参考にした場合は模写ではなくデッサンになると思います。この辺は曖昧なところですよね。模写をする場合にもデッサン的な要素があり、デッサンをする場合にも模写の要素があります。
模写の基本技能について
模写のやり方について一番ためになりそうな本はシャルル・バルグの「ドローイングコース」です。
模写の手順に詳しく書かれていますが、今回はいちばん重要なまとめの箇所を引用して紹介いたします。
「もう一度、まとめておこう。新しい石膏像を描き始めるときは必ず、最も重要な点およびコーナーの位置を決めるところから始める(垂直線などのガイドを用いるとよい)。曲線はそのまま写そうとせず、何本かの直線に分割すること。大きいフォームに集中し、小さいフォームはこの段階では無視する。常に輪郭を確認し、必要に応じて修正する。その次のステップで、点、直線、コーナーをより精緻化する。モデリングに取り込むのはその後だ(25P)。」
よくあるデッサンの説明とは異なります。デッサンの本では立方体や球体などの描き方や、立体感の出し方、質感の出し方、影の付け方等がメインになります。人物画においては人間のプロポーションが重要になり、風景画デッサンでは遠近法がより重要になります。
バルグのデッサン本では難しい用語があまり出てきません。とにかく「観察眼を鍛えろ」ということにつきます。バルグいわくドローイングとは「現実の観察から重要な要素を選び、それぞれの関係性を維持しながら紙面に記録する作業(23P)」 です。ここからここの線は、あの線の2倍くらいだなとか、この点とあの点はどちらが高いだろうとか、どちらが鋭いだろうとか、そういった観察が重要になります。
バルクの本では垂直線や水平線を使い、うまく重要な要素を選んでいく作業が中心となります。またその選び方の見本がのっています。
模写にフォーカスをあてている本でほかにはrarks「teach anyone to draw」も英語ですがよさそうでした。電動消しゴムや円定規、プロポーショナルドライバーやグリッド定規など模写に役立ちそうな道具の使い方が載っています
観察眼について
模写において必要なのはとにかく「観察眼」を鍛えることと、描くことになれることです。「慣れ」とは何度も繰り返し描くことによって円がきれいにかけたり、線がまっすぐかけたりするということです。
「絵の慣れ」は単純な描画練習で鍛えられることができるそうです。鉛筆の正しい持ち方、手先ではなく腕を使って引く、ストロークを練習する等です。デッサン本でもこのような練習法はよく記載されています。
「目から受け取った膨大な情報を整頓してもらわないといけません。見えているものの中で描くべきものと描かないで良いものを選別してもらいます。慣れてくると、目にもちゃんと指令を出して、なんでもかんでも細部までみないようにコントロールもしてくれます。そうすると、与えられた時間や締切までの間に、何を描くのかはっきりし、効率よく描くことができるようになってきます。この情報の選別こそが個性です。同じものを見ても、みんな違う絵を描きます(「絵はすぐに上手くならない」,21P)。」
これも観察眼に関する説明です。要は目の前の対象物をどうやって単純化するか、抽象化するかということです。上手いと言われる人の絵はこうやって単純化されているんだな、抽象化されているんだな、ここの線は描かなくて良いんだな、というの知識を模写の過程で得ようという試みでもあります。
「いつか楽に、鼻歌でも歌いながらさっさと描けると思うかもしれませんが、残念ながらそんな日は来ません。上手な人も必死で形を取り、遠くから何度も眺めて形を直し、一心不乱に描き込み、ようやく絵が完成するのです。むしろ画家の大先生やアーチストのほうが、命を削らんばかりにすごい形相で画面にむかっていることでしょう。ですから、誰しもが『最初から楽に描ける』わけはなく、『うまくなったら楽に
描ける』こともないと思ってください(『絵はすぐに上手くならない』24P)。」
バルグさんも模写に関して「単なる趣味や暇つぶしとしてドローイングを学ぼうというものには、決して好まれない」と言っていました。必死で観察眼を磨こうという動機と、その道標の重要性がよくわかります。ダイエットの方法だけ調べまくって、結局食事制限や運動は辛いからしないみたいな感じですよねきっと。
絵と個性の関係について
アリストテレスのミメーシスについて
歴史的に考えれば、「個性」が重要視されるようになったのは比較的最近の話です。
アリストテレス(紀元前384-前322)は「芸術はミメーシス(自然の模倣)」であると言いました。
見たものをそのまま写しとって描くのが芸術とされ、良しとされていたのです。つまり写実的な絵が良いとされていました。写実的な絵はうまいし、すごいし、良い絵だったのです。
17世紀以降にこうした価値観は大きく変わります。すこしこれから哲学的な話をします。この項は「なぜ絵を描きたいか」という動機を探るための手がかり的な要素として置いておきます。すでにはっきりしているとう方には不要かもしれません。
[speech_bubble type=”std” subtype=”L1″ icon=”snuf.jpg” name=”suu”] ちょっとややこしいので苦手な人は飛ばして大丈夫です [/speech_bubble]
「当時詩は多くの聴衆の前で詠じられ、人々は音楽的に-つまり情感を通じて積極的なのめりこみによって-それを学んだ。『模倣』とも訳される『ミメーシス』という語は、そもそもこのような一体化を指す言葉で、それをプラトンは、語り手の魔力に聴き手が全面的に身を委ねてしまう状態を言い表すのに用いている。プラトンによれば、このプロセスは生理的な変化を聴き手に及ぼす。体を弛緩させ官能的な効果をもたらし、自己が完全に他者の中に呑み込まれてしまうというのだ。ハヴロックはこう結論する。ホメーロス以前のギリシャ人の生活は、『自己省察のない生活であったが、意識と調和した豊かな無意識を活かすことにおいては、他に比類なきものであった(モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ」73P)。』」
プラトンはソクラテスの弟子です。そしてアリストテレスはプラトンの弟子です。
プラトンはこうしたミメーシスを問題視しました。出来事を単に経験したり模倣したりするのではなく、出来事を分析したり分類したりすることを重視したのです。つまり主体と客体を区別し、主体の正しい役割は客体を観察し評価することだと主張したのです。
ミメーシス、つまり模倣においては主体と客体が区別されません。すこし言いすぎかもしれませんが、たとえば私という人間(主体)と、道端の石ころ(客体,自然)が別のものという意識がないのです。自然は実験する対象、操作する対象ではなく、自分と自然は一体であり、溶け合っているということです。
環境保護団体やヒッピーが言ってそうな理想論に聞こえるのもわかります。しかし近代以前は科学や経済が発達していない時代にはそういった自然に参加する意識やミメーシスの価値観が浸透していた時代でした。こうした時代において芸術はミメーシス(自然の模倣)だったのです。
ミメーシスの伝統が消えたのはさかのぼればプラトンのこうした「主体と客体を区別する思想」、そして後のフランシス・ベーコンの「技術によって自然から真理を搾り取るという思想」、ルネ・デカルトによる「対象をもっとも単純な構成要素に分解して知るという思想」等があります。そこからニュートンが科学を世界に広め、羅針盤や印刷技術等が発明されて航海できるようになりさらに科学が必要とされ、経済が発達し、さらにミメーシス的なものは不必要になっていきました。
重要なの利益(実益)です。自然と私を区別することで自然を自由に実験でき、科学が発達し、利益が生まれます。写実的な絵はミメーシス的な価値観のもとで評価されるもので、科学や経済が発達した近代以降にはそれほど評価されるものではなくなっていきます。単にカメラが発明されたから写実的な絵が評価されなくなったという単純な話ではありません。
昔の人達は「自分は何のために生まれたのか」といったことを今の人達ほど考えていません。そういった自我が強くなかったのです。人間や自然はそれ自体が目的であり、価値があったといえます。しかしそうした価値観は薄れ、なにかをしないと価値が生まれないと考えるようになります。自然はそのままではなく、加工しなければ価値が無いのです。人間も同じでなにか個性がないと価値が無いのです。ですから学歴、ブランドバック、有名企業、整形、多趣味等々が重要視されるようになります。
現代において「個性」が重要視される背景は「貨幣」にあります。時間でさえお金です。時間はお金に変えないと意味がないのです。個性もお金に買えないと意味が無いとみなされてしまいます。個性的な絵は高く売れます。個性的なアイデアは実益があります。個性的な企業は成長します。農業が中心の世界は終わり、工業、そしてサービス業へと移り変わっていきました。
(マルセールの泉)
「何を描くか」ではなく「だれが描いたか」も重要視されるようになります。トイレの便器を泉に例えた絵が評価されるようになります。
村上隆の絵
これらはいわゆるモダンアートです。美術が個人主義的な、個性を重視するものとなり、それらがお金になる時代です。ここにミメーシス的な伝統はもうありません。
あらためて考えると、「すごい絵」はなにか正解や真理のものがあるのではなく、時代背景によって変わるといえます。時代背景に合わせて判断するのではなく、真剣になにがいいのかを歴史、哲学、経験、価値観、他者との議論等を総動員して考えなければいけないと思います。大勢の人が個性的な絵はすごい絵と考えるから、個性的な絵を描こうとするのは安直です。
昔の世界はなんて素晴らしいんだ!スマホやPCを捨てて自然の中で暮らそう!今の芸術なんてクソだ!金なんて卑しい!というわけにもいきません。現代に前近代にない自由や利便性、選択肢があります。また個性を重視するのを単純に悪とみなすわけにもいきません。
ここらへんほんとに難しいですよね。哲学的な流れで言うと今まではどこか絶対的、客観的、いわゆる真理があると考えられていましたが、今では相対主義が強くなり、真理はひとそれぞれ、価値も人それぞれ的な思考が強くなりました。こういう価値観を真理相対主義と言います。人それぞれのほうが経済的には都合がいいのです。商品は多様になり、よく売れるからです。みんなが同じ価値観なら、同じものしか買わないですよね。個性を重視する世の中でないと世の中は回らないのです。
相対主義について
西部邁によれば「相対化への前進」と「相対化への停滞」は違うそうです(『虚無の構造』24P)。前進とは完全な答えはないけれど、とりあえず答えとして常に仮説をつくり、問い続け、絶対が見えてくると期待し続けることらしいです。どうせ人それぞれだから考えなくていいやというのが停滞です。
芸術にもそういう面があるのかもしれません。美とはなにかというのものは人それぞれで、自分がいいと思ったらいい、時代が俺においついていないぜ!批判されてもそれはあなたの価値観にすぎない!とか思う人もいると思います。そうした思考は自己以外のものを許容しない懐疑主義であり、皮肉交じりのシニシズム的な要素があります。
逆に自分というものをないがしろにしてとにかく多くの人、大衆の価値観に合うような芸術ばかりを作る人もいます。こうした価値観は「何が良いか」について考えることを放棄し、世間の価値観に合わせていこうとする態度です。漫画は単なる個性の発表場ではなく、お金のための手段であります。編集者からしたら売れないと食べていけないので「大衆にどういったものが受け入れられやすいか」をリサーチして、作家にアドバイスすることになります。
真剣に「何が良いか」について考えるのは大変な作業です。なぜなら答えがないからです。まるで禅問答です。「両手をたたくとパンッと音がする、では片手ではどんな音がするか」について考えるようなものです。
すごい絵とはなにか、美とはなにかを考えるのも同じことなのです。大変な作業で、疲れてしまいます。ですから大抵の人はそうしたことについて考えるのやめ、忘れようとします。絵すらかかないかもしれません。仕事してお酒に溺れて一日を終えるかもしれません。忘れるために「刺激性と伝達性の出来るだけ大きな情報」に接するようにします。ひたすらアニメを見たり、youtubeを見たり、ナショナリズム(韓国批判とか)に走ったり、食べたり、仕事をしたり、AVを見たり、とにかく忙しさや新奇性で埋めようとします。
西部邁によればとにかく「真理とはなにか」について問い続けることが大事であり、新奇さだけではなく「伝統」を土台にして考え、また他者とそうした問いについて話し合うことが必要だといいます。
たしかに独りで「美とは何か」について考えるよりは、他者と語り合うほうが良い気がします。独りでどうせ正しい答えなんてないんだ、と思って「ニヒリズム(虚無)」に陥るよりは、他者と語り合ってみんなで語り合ったほうが虚しくないですよね。
「マルティン・ハイデッガーにならっていえば、範型化され切った感じ方、言い方、そして行い方のうちに『頽落(たいらく)』したものたちを『世人(せじん)』とよぶのである。とくに、(技術的)情報社会とやらが進展するにつれて、人々は範型化された情報に教育機関や情報機関を通じて、常住坐臥、接するようになる。つまり彼らはいわば準『科学者』になるのである。それゆえ、世人としての大衆もまた、科学者と同じく、まず『退屈』と「焦燥」にとらわれ、次いで『忘却』へと誘われることになるのだ(同,18P)。」
「『精神的欲求』においても、自己の固有の表現法を欲望するであろう。しかしその固有性は、とりわけ精神的欲望にあっては、無数の他者たちからなる社会の標準からの『偏差』を求めるということでしかありえない。結局、自己のみを覗き見るエゴイストのせいしんは、そこに精神的な『無』を看て取るほかないのである。自己を絶対視するものは、その膨らみ切った自己の精神的中味がまったくの空虚であると知らされるであろう。それを知りたくないために、世人=大衆は『自己』を社会の意味体型の祭壇に鎮座させる。つまり、『セルフ・フェティシズム(自己物神化)』に酔い疲れた振りをする。それが現代人の生き方となっているのだ(同,20P)。」
「価値不感症のひとつの携帯は、あたかも自分が状況にたいして感応的であるかのように装うことを可能にするもので、それは、無数の他者における平均的な価値観、つまり『世論』の示す行為に従うことである。統計的に水平化された他者の価値のうちに自己のそれを投射するというのは、きわめて受動的なやり方である。しかしそのやり方によって、外見的にはそれこそが能動的な社会へのアンガシュマン、つまり『関わり』であるかのように偽装することができる。価値相対主義が絶対視されているこの時代にあって、社会の表層では『価値の多様化』がもとはやされつつも、社会の深層では『価値の一様化』とよんでさしつかえない事態が進んでいる。そうなるのは、相対主義という価値の分裂症状が状況へのアダプティズム、つまり『適応主義』によって隠蔽されているからである(同,22P)。」
著作権ついて
個性はお金に変わるので、とうぜん法律で守らないといけなくなります。個性が尊重されなければお金にならないので、法律で守るのです。個性を法律で守るのは良いですが、どんどん窮屈になっていきます。悪意のある海賊版とかそういうのは罰するべきだと思いますが、影響を受けたとか、オマージュとか、なんかそこらへん難しいですよね。
芸術っていうのはそもそも問いを次の世代へと受け継がせるものだと思います。ある世代の人が美とはこういうものだと考えたから、それを参考に自分はこんなのを加えて、もっとよりよい美を考えました、といったようなつながり、継承的な面があると思います。手塚治虫がディズニーに影響を受けたのもそういうものだと思っています。模倣やオマージュがマイナス的な面で思われてしまうのはお金が絡むからなんですよね。
そこらへん難しいですよね。模倣されるということは光栄で、受け継いでいってくれる人がいるんだと思うほうが楽しいと思います。
この動画ではジョジョがパクリだなんだと騒がれています。
いやいや、これはパクリだろー。影響を受けたといのは先人から学び、それを自分の中に取り入れて新しいものを創造するということ。これはポーズにしてもエピソードにしても何の努力も無くまんま真似してるだけじゃん。ファンだったからちょっとショックだわー。ちなみにパクリではなく上手いこと他人の作品を自分のものにしているなと思うのはハンター×ハンターの冨樫さん。ドラゴンボールやらジョジョやら寄生獣やらいろんな作品の影響を受けつつ決してパクる事無く自分の作風として昇華していると思う。以上です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11125422296
パクリ元に敬意を持っていて、パクり元より面白ければ、より発展的であれば、より魅力を付加していればそれはオマージュと言われます。
パクり元を単に模倣するだけのものには価値はありません。
同メディア、同ジャンルならなおさらです。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11125422296
ジョジョが好きな方からすればリスペクトから来るオマージュ。 嫌いで批判したい方からすればパクリと捉えるでしょう。 荒木先生は芸術作品、ファッション、音楽に詳しい方なので 私は前者だと考えています。 芸術面ではNHKの番組にコメンテーターとして呼ばれるほどです。 双方思うところはあるでしょうがそれは荒木先生本人にしか分からないことなので 外野がどれだけ議論しても結論は出ないでしょう。
何にも影響されないで、創作などできるものか。この程度は「インスパア」で済まされる範囲で、パクリという言葉で批判することはナンセンスと思える。無から何かを創造するのが絶対ならば、宗教にでも出会うがいい。そんなものは人間には無理だ。
銀河鉄道だのって著作権にやたらうるさい爺さんも その銀河鉄道って言葉も自分のオリジナルじゃないじゃん。 そもそも先人の影響を受けない文化なんてあるのか。
(コメント欄より)
こういうのを経て漫画が上手くなるって、これはプロとしてお金を取っているわけです。 それが許されるのは個人の範囲内だけです。 もしもパロディでないトレスが許されるなら、例えば音楽で言うと、誰かの替え歌をメジャーレコーズが新曲として売っていいことになります。 何かを創るってのは大変なことなんです。トレスや替え歌が出回れば原作者は創作意欲を失うでしょう。
(コメント欄より)
いろいろな意見がありますね。
パクリとオマージュの境界線難しいですね。影響を受けて新しいものを加えるというのがオマージュなんでしょうか。新しいものを何も付け加えないとパクリになるのでしょうか。リスペクトがあればオマージュで済むのでしょうか。
ドラゴンボールはそもそも西遊記に影響を受けてそうですが、パクってるというよりはオマージュですよね。モデルのポーズをそのままもってきたらパクリというのもよくわかりません。ポーズなんていいだしたらどれだけの数の作品が世の中に出ているでしょうか。億単位だと思います。それぞれに合致していないポーズなんてそうとう奇怪なポーズだと思います。構図等も判断が難しいです。
とりあえずは自分で一度参考にした絵をどう自分のものにするか考える必要があるのかもしれませんね。自分でよく考えて作り出した結果、他の人とかぶっていたなら許されていいと思います。こういうのは動機の問題ですよね。結果としてかぶったとしても動機で一生懸命考えて創ったものならそれでいいんですよ。セーフです。超セーフです。
下のクロスハンターのように思考停止して、楽だからトレースしておけばいいかといったようなものは退屈です。お金儲けが目的ならそれでもいいかもしれませんが、いいものを創りたい、美とは何かを追求したいという目的ならあまり役に立ちそうにありません。練習としてはOKですが、作品として公に出すのはどうかなというところです。
お金が絡んでくるとこのようにいろいろやっかいになりますよね。同人誌はお金が絡んでくる場合が多いですがグレーゾーンと言われています。お金が絡んでいないアニメや漫画のキャラのツイッター上の絵も著作権的にはグレーだと思います。
グレーでいいんじゃないですかね。リスペクトもない悪意のある、あきらかにお金目的のパクリはアウトですが、それ以外のオマージュはグレーでいいと思います。資本主義社会でお金が絡んでくるのでしかたなくグレーですが、楽しく生きるためにはこんなもん気にする必要ないと思います。他人の評価ばっかり気にして生きても楽しくないです。うるせえ!と言っておけばOKです。気の合う仲間同士で語り合えばいいんですよ。
どんどん過去のいい作品の良いところを抽出して、組み合わせて、加工して、分解して、新しい要素を取り入れて、創造していくのが本来の創造のあり方です。オマージュされたら光栄くらいの気持ちでドーンといたいものですね。
個性について
相対主義の話の通り、固有性とは標準からの偏差でしかありません。標準からものすごく外れた、固有性のある絵が描かれたとします。発表された当時は固有性がありましたが、みんなが真似するようになってしまい標準に近づき、やがて固有性を失ってしまうことがあります。固有性は個性とも言いかえられます。自分では個性的な絵柄を考えたと思っても、実は世界中で同じような絵柄の人がたくさんいるかもしれません。あるいは過去にそういう絵柄のひとがすでにいたかもしれません。
個性に執着しようとすれば、同じような絵柄の人がいるかどうかを世界中、そして過去にもすべてさかのぼって調べる必要があります。完全に調べて、自分は他の人とは違う!といえるのです。現実にそこまで調べる人はいませんし、できません。そういった意味で個性、独自性に固執するのは虚しいといえます。
そうはいったものの、みんなが良いと認めるような絵柄、時代で流行っている絵柄を単に自分のものとするのも思考停止というか、問いをやめて忘却している気がします。個性に執着するのも、標準に合わせるのもだめならどうすればいいのかという問題になります。
また「美はそもそも個人的なものなのか」という問題があります。美に固有性なんて関係ないし、世間の標準てきな価値観も関係ないと考えることもできます。
実際に古代から中世にかけては芸術は個人主義的なものではなく、自然の模倣的なものでした。人間が美とはなにかを主体的に創り出すというよりも、自然そのものが美だったのです。個性的な絵が美であるという価値観ではありませんでした。そして誰が芸術作品の作り手かというものもあまり重要視されていませんでした。なぜなら人間の主観や個性、感覚は自然よりも不完全だとみなされていたからです。
近代に入ってこうした価値観から、ヒューマニズム的な価値観へ移行することになります。ヒューマニズムとは「人間にとって人間が最高で、人間性こそ尊重すべきもの」です。自然を模倣するよりも、人間が主体的に、美を表現、発見できるんじゃないかということですよね。
カントと美について
趣味の正しさは数学的に証明することができるでしょうか。または何が美しいかについて証明することができるしょうか。
数学的に黄金比を証明して、黄金比だから美しいんだと仮に証明したとします。ですがある人がいやいやこれ黄金比らしいけど別に美しくないと言ったとします。いやいやそれはお前の判断が間違っているだけだ、黄金比なんだから美しいと思わないお前が悪いと言われることになります。個人が気に入っているかどうかはどうでもいいのです。
カントは「趣味の正しさは数学などで証明することが出来ない」といいました。数学的な論理や科学的な客観性と美は無縁なのです。ただし趣味の正しさは論じ合う事ができ、意見が一致する可能性があるとも言いました。つまり単なる相対主義に陥らず、他者との話し合いによって一致する可能性があることを示唆しています。
こうしたものを「間主観性」というそうです。美的な判断は個人的な主観性に依拠しながら拡張して、他の人と共有できるようなものへ向かっていくのです。
知性、合理性、技術、理性、個性といった近代以降につよく重んじられるようになった要素だけでつくった美は美しいでしょうか。夕焼けとプラモデルを比べてどちらが美しいでしょうか。プラモデルはたしかに上手い、すごい、と思う人はいるかもしれません。ですが美しいと思う人はそこまで多くないはずです。ですが夕焼けは上手い、すごい、と思われないかもしれませんが美しいと思う人は多いはずです。岡本太郎がつくったから美しいんだろう、といった美しさも何か違います。
ここらへんはすごく抽象的な話ですよね。人間の個性的なものと、自然の普遍的なものとどちらかだけではなくて、うまく混ざり合い、調和し、溶け合ったものが美なのではないでしょうか。そういう調和は他の人と語り合える間主観的なものだと思います。今更自然だけを模倣して満足するというのも難しいです。かといって自然を蔑ろにして、モダンアート的なウルトラ個性に走るのも嫌です。うまーく調和して溶け合った点に美というものが現れるような気がします。
その点がどこにあるかはわかりません。ひたすら問い続けて、他者と語り合い、見つけるしかないのです。そうして生まれた作品には美が宿るはずです。こうした作業が面倒で、平均的な大衆の価値観に合わせたり、そもそも美に関わること自体をやめたりすることは簡単ですが、すこし退屈です。
感想
[speech_bubble type=”std” subtype=”L1″ icon=”snuf.jpg” name=”suu”] ムーミン谷最高! [/speech_bubble]
僕はムーミンというアニメが好きです。そしてムーミン家の世界観が好きです。
前近代でも、近現代でもない世界観ですよね。ムーミンママは家族思いでやさしいし、スナフキンはかっこいいし、ほんとに好きです。こういう世界観なら現代社会の便利さなんていらないです。スマホもPCもいりませんし、冷蔵庫や洗濯機もいりません。芸術や哲学も必要ないかもしれません。
ですがムーミン家の世界は謎すぎます。どうやって生計を立ててるんですか。ムーミンパパは作家だそうですが、収入という概念があるかどうかもわかりません。食料は誰が作っていて、どのような過程でムーミン家へくるのでしょうか。すべて自給自足なんでしょうか。
精神的な豊かさはまず衣食住に恵まれてている必要があります。ムーミン家は衣食住には困っていません(ほぼ全裸ですが)。ムーミンはいい友達、良い家族、良い自然といったように環境に恵まれています。スナフキンが遊びに来てくれるので退屈することもありません。進学も就職も税金も考えなくていいので、なにか義務のようなものがないのかもしれません。
いい友達と、良い家族と、衣食住がある程度充実していれば、芸術や哲学はいらないんじゃないかと個人的に思います。むしろ、そうした友達や家族がいないからこそ、芸術や哲学にハマっていくのだと思います。あるいはお金を稼ぐことに傾倒したり、お酒に走ったり、薬に頼ったり、ギャンブルに依存したり、別の方向に傾いてしまいます。
「美とはなにか」を問い続けることはたしかに重要な事だと思います。ですがそれは僕にとってただの手段だと思います。目的ではありません。「美とはなにか」について考えることで、他者と話すときの話題にできるとか、その程度でいいともいます。「すごい絵」を描けること自体が目的ではなく、「すごい絵」を描くことで他者と語り合い、つながるきっかけになることが目的です。
人生楽しければいいと思っています。極端に言えばムーミン家みたいな楽しい生活を送りたいです。つまり良い家庭をもち、いい友人をもち、ある程度の衣食住があればいいのです。ムーミンパパみたいに自分の好きなことを仕事に出来ればもっと最高ですね。それが僕にとっての理想です。そのきっかけとして「絵が描ける」という手段があるに過ぎません。もちろん絵は好きです。ですがそれ自体が目的になると、人間関係が手段となって本末転倒になってしまいます。加減が大事だと思います。
Twitterを見ても「絵で人がつながっている」事が多く見受けられます。こうしたつながりの力になりたいですし、私も絵でつながりたいと思っています。そうしたものが動機でサイトを作っています。絵でつながるためには必ずしも「すごい絵」は必要ないですが、すごい絵に対して向かっている、美とはなにかについて問い続ける姿勢があるという人は魅力的に感じます。美とは何か、いい絵とは何か、について共感し合える、話題にし合える、話し合えることは素晴らしいと思います。
とりあえず今は新しくスタートするかたちでバルグの本の模写をしています。また経過報告したいと思います。
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